饒益神宝

饒益神宝(東京国立博物館所蔵)
明日香村埋蔵文化財展示室展示品

饒益神宝正体字:饒益神寳、じょうえきしんぽう/ニョウヤクしんぽう)は、859年(貞観元年)4月から、日本で鋳造、発行された銭貨(『三代実録』)[1]皇朝十二銭の8番目に発行された貨種である。

始鋳と流通

独立行政法人造幣局の資料によると、饒益神宝の始鋳年は貞観元年(859年)、材質は、量目2.55g、直径17.4-21.0mm、銅分63.00%である[2]。ただ、皇朝十二銭のうち平安遷都後の9貨種は質の低下により文字が不鮮明になるなど安定していない[3]

『日本三代実録』によると饒益神宝は清和天皇の時代の貞観元年(859年)4月28日に発行された[3]。「饒益」は通常「じょうえき」と読み、これは「物が豊かなこと」を意味する語だが、仏教用語においては「饒益」を「ニョウヤク」と読み、これは「物を与えること」を意味する[4]

日本三代実録』巻二

貞觀元年四月廿八日癸丑

詔曰。書稱科斗。懋遷之訓斯彰。簡號韋編。交易之方呂遠。是以姜公通市井之貨。齊國大彊。鴟夷善廢歛之居。陶業爰盛。遠則赤側白金。近則鵝眼□環。順世而異名。逐時而興利。但權輕作重。子去母隨。誠是歴年之漸深。遂知行用之彌賤。宜改舊幣更制新錢。勤此變通。救彼流弊。文曰饒益神寳。一以當舊之十。即舊之與新。竝令雜用。

貞観7年(865年)には文字が不全であったり銭貨が欠けていることを理由とする撰銭に関する記録が残る[3]。日本国内における撰銭の最古の記録がこの饒益神宝の流通時であり、『日本三代実録』の貞観7年(865年)6月10日条には新銭の文字が頗る不明瞭であっても使用に支障が無ければ撰銭することを禁止する詔が出されたことが記されている。

『日本三代実録』巻十一

貞觀七年六月十日己未

禁京畿及近江國賣買之擇弃惡錢曰。弘仁十一年六月九日下知大藏省曰。鑄錢司所進新錢。雖文字頗不明。而不失體勢。亦有小疵。行用無妨。宜猶納。而間愚者不悟此旨。專任已心。擇弃不受。或稱文字不全。計十嫌二三。或號輪郭有缺。擧百缺八九。是以要升米者。飢口難餬。買屯綿者。寒身不暖。宜于路頭。嚴加禁止。若有乖違。隨即决笞。

鋳造期間が11年と短く、皇朝銭の出土記録の総計1万2千枚余りのうち、饒益神宝の出土は76枚で銅銭としては最も少ない[5]。そのため饒益神宝は最も現存数が少ない平安銭貨とされる[3]

参考文献

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  1. ^ 武藤和夫『日本貨幣法制史』三重大学法制史学会、2-3頁。https://kuwana-library.jp/kcl_digital_pdf/241.pdf 
  2. ^ “造幣博物館のご案内”. 独立行政法人造幣局. p. 30. 2024年9月3日閲覧。
  3. ^ a b c d “和同開珎発行1300年 貨幣誕生―和同開珎の時代とくらし―”. 日本銀行金融研究所貨幣博物館. p. 15. 2024年9月3日閲覧。
  4. ^ 久光重平 『日本貨幣物語』 毎日新聞社、1976年
  5. ^ 『日本の貨幣-収集の手引き-』 日本貨幣商協同組合、1998年