青木俊矩
凡例 青木俊矩 | |
---|---|
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
生誕 | 不明 |
死没 | 慶長13年5月6日(1608年6月18日) |
別名 | 善右衛門、右衛門佐(通称) |
戒名 | 江庵宗永居士 |
墓所 | 金剛院(福井県越前市) |
官位 | 右衛門佐 |
主君 | 豊臣秀吉、秀頼 |
氏族 | 青木氏 |
父母 | 青木一矩または青木矩貞 |
子 | 宮内卿局(木村重茲室) 久矩、泰矩[2]、昌矩[3] |
テンプレートを表示 |
青木 俊矩(あおき としのり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣家の家臣。越前国金剛院城[4]主。
略歴
父は青木一矩(紀伊守)というが[5]、『青木系図』では一矩の弟の半右衛門矩貞の子で、一矩の甥であったが養子になったという異説が書かれている[1]。
豊臣秀吉の従甥にあたり、馬廻衆として仕えた。天正20年(1592年)の文禄の役でも、馬廻衆の一人として肥前名護屋城に在番し、佐藤隠岐守の組に属していた[6]。
慶長3年(1598年)の秀吉の死に際して、遺物長光の刀を受領した[5]。慶長4年(1599年)、豊臣秀頼に伺候し、同年2月に(父の旧領であった)越前金剛院城主とされ、2万石に加増された。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父と共に西軍につき、北国口を守るが、戦うことなく終戦となる。戦後、前田利長の家禄存続の口添えを受けたが許されず、改易されて失領し、加賀前田家に預けられた。
慶長13年(1608年)5月6日、金沢にて病死した[5]。
系譜
- 父:青木一矩 または青木矩貞
- 室:不詳
脚注
[脚注の使い方]
- ^ a b c “青木系図”. 東京大学史料編纂所. 2022年10月19日閲覧。
- ^ 次男・某。前田利長の家臣[1]。
- ^ 荘左衛門。三男で嫡男となるが、多病により馬に乗れず、隠棲。結城秀康に召されて、屋敷を与えられ、酒造業に転ず。平吹屋の祖[1]。
- ^ 廃城後、本多富正によって寺院とされた。
- ^ a b c 高柳 & 松平 1981, p. 3.
- ^ 吉村茂三郎 著「国立国会図書館デジタルコレクション 松浦古事記」、吉村茂三郎 編『松浦叢書 郷土史料』 第1、吉村茂三郎、1934年、143頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1214367/103 国立国会図書館デジタルコレクション。
参考文献
- 福田源三郎『国立国会図書館デジタルコレクション 越前人物志. 上』玉雪堂、1910年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993478/108 国立国会図書館デジタルコレクション。
- 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、3頁。