霊雲
唐に渡った年次は不明。舒明天皇4年(632年)8月、唐使の高表仁とともに、犬上御田鍬・旻・新羅の送使らに従って、対馬に泊まっている[1]。その後、高表仁とともに難波津に到着し、日本本土に上陸したものと思われる[2]。
その後、大化元年(645年)8月、十師の制が設置された時、福亮・恵雲・旻・道登・恵至・恵妙らとともにその一員に任命されている[3]。 白雉2年(651年)春三月、前年より取りかかっていた丈六の繍像(ぬいものほとけ)など36体の仏像が完成したので[4]、十師たちは皇御母尊(すめらみおやのみこと)によって招請され、斎会を催している[5]。
以後のことは伝わっていない。
脚注
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参考文献
- 『日本書紀』(四)、岩波文庫、1995年
- 『日本書紀』全現代語訳(下)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1988年
- 『日本の歴史2 古代国家の成立』、直木孝次郎:著、中央公論社、1965年
- 『日本の古代3 海をこえての交流』、大林太良:編、中公文庫、1995年
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