森可隆
凡例 森可隆 | |
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 天文21年(1552年) |
死没 | 元亀元年4月25日(1570年6月8日) |
別名 | 傅兵衛(通称) |
戒名 | 芳宗理禅定門 |
墓所 | 可成寺(岐阜県可児市) |
主君 | 織田信長 |
氏族 | 森氏 |
父母 | 父:森可成 母:妙向尼(林通安の娘) |
兄弟 | 碧松院(関成政室)、可隆、女(青木秀重室)、長可(長一)、うめ(木下勝俊室)、 長定(蘭丸)、長隆(坊丸)、長氏(力丸)、忠政 |
特記 事項 | 可隆の戦死後、家督は弟の長可が継ぎ、さらにその戦死後、末弟の忠政が継いだ。 |
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森 可隆(もり よしたか)は、戦国時代の武将。織田信長の家臣。森蘭丸らの長兄。
略歴
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天文21年(1552年)に森可成の長男として生誕[1]。森長可を長男とする書もあるが、谷口克広は、可隆を置いて長可は二男とする『重修譜』が正しいとする[2]。
元亀元年(1570年)4月の信長の越前朝倉攻めに従軍[3]。
同月25日の天筒山(手筒山)攻撃に参加して討ち死にした[3]。享年19[3]。法名は宗理[3]。
「金ヶ崎の戦い」も参照
父の可成も同年9月の宇佐山城の戦いで、近江坂本に打って出て戦死した。
「志賀の陣」も参照
弟の長可が美濃金山に移り、同地に可成寺を建立して、一族の墓を立てた中に可隆の供養墓もある。
脚注
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