富雄町
とみおちょう 富雄町 | |
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廃止日 | 1955年3月15日 |
廃止理由 | 編入合併 奈良市、富雄町、伏見町、帯解町、辰市村、五ヶ谷村、明治村 → 奈良市 |
現在の自治体 | 奈良市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 近畿地方 |
都道府県 | 奈良県 |
郡 | 生駒郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 | 7,165人 (国勢調査、1950年) |
隣接自治体 | 奈良県:奈良市、大和郡山市、生駒郡生駒町、伏見町、北倭村 |
富雄町役場 | |
所在地 | 奈良県生駒郡富雄町大字中 |
座標 | 北緯34度41分21秒 東経135度43分37秒 / 北緯34.68922度 東経135.72683度 / 34.68922; 135.72683座標: 北緯34度41分21秒 東経135度43分37秒 / 北緯34.68922度 東経135.72683度 / 34.68922; 135.72683 |
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富雄町(とみおちょう)は奈良県北西部、生駒郡に属していた町。大和川水系の支流・富雄川を擁する。
富雄・学園前を中心とする現在の奈良市西部の広い範囲に当たり、北端は現在の奈良市東登美ヶ丘、南端は奈良市石木町に位置していた。
地名の由来
『日本書紀』および『古事記』に描かれた神武天皇の神武東征に由来する。
西暦紀元前663年(天鈴55年)、のちに神武天皇として即位する神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)は、この地を支配する豪族・長髄彦と戦った。磐余彦尊が苦戦するなか、急に空が暗くなり、雹が降り出す。その時、金色の鵄(とび)が飛来して弓先に止まり、神通力を得た磐余彦尊は長髄彦を討って勝利を収めた。この様子を見た人々は、当地を鵄邑(とびのむら)と名付けた[1]。後世、鵄邑は鳥見郷または鳥見庄と呼ばれるようになり、さらに変化して富雄村となった[2]。
ただし、地名の由来となった神武天皇聖蹟碑は富雄町ではなく、隣接する生駒郡北倭村(現・生駒市)に存在する[3]。
この故事は、奈良市への編入前年の1954年(昭和29年)に富雄町教育委員会が発行した「富雄町史」にも記載されている(奈良市立西部図書館で閲覧可能)。
歴史
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、添下郡 二名村, 三碓村, 中村, 大和田村, 石木村が合併し富雄村が成立。
- 1897年(明治30年)4月1日 - 所属郡を生駒郡に変更。
- 1953年(昭和28年)4月1日 - 町制施行し、富雄町となる。
- 1955年(昭和30年)3月15日 - 伏見町、帯解町、辰市村、五ヶ谷村、明治村とともに奈良市へ編入され廃止。
交通
鉄道路線
道路
出身・ゆかりの有名人
奈良市編入後の富雄地区に関連する人物については、奈良市の項目を参照。
- 中村メイコ - 戦時中、当時の生駒郡富雄村に疎開していた[4]。
脚注
[脚注の使い方]
関連項目
- 富雄駅
- 学園前
- 奈良県の廃止市町村一覧