佐藤弘明
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名前 | ||||||
愛称 | さっさん | |||||
カタカナ | サトウ ヒロアキ | |||||
ラテン文字 | SATO Hiroaki | |||||
基本情報 | ||||||
生年月日 | 1932年2月5日 | |||||
出身地 | 兵庫県尼崎市 | |||||
没年月日 | (1988-01-01) 1988年1月1日(55歳没) | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FB | |||||
ユース | ||||||
19xx-1950 | 兵庫県立尼崎高校 | |||||
1951-1954 | 関西学院大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
全関学/関学クラブ | ||||||
代表歴 | ||||||
1955-1959 | 日本 | 15 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
阪南大学 | ||||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
佐藤 弘明(さとう ひろあき、1932年2月5日 - 1988年1月1日)は、兵庫県尼崎市出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFB。長女は元OSK日本歌劇団の緒花朋(オバナトモ)。
経歴
兵庫県立尼崎高校ではサッカー部に所属。1951年に関西学院大学に進学してサッカー部に入部した。徳弘隆、木村現および平木隆三が同期に当たり、在学中は東西学生蹴球対抗王座決定戦で優勝2回、関西学生サッカーリーグで優勝3回を経験した。また、大学4年次の1955年1月2日に開催された国際親善試合(ビルマ(保健大臣チーム)戦)で日本代表初出場を果たした[1]。
1955年3月に大学を卒業して川惣電機工業に入社した[要出典]。1955年5月に開催された第35回天皇杯全日本サッカー選手権大会で全関学(在学生およびOBで構成される混成チーム)のメンバーに選出され、大会優勝に貢献した。
1956年にメルボルン五輪の日本代表に選出されてオーストラリア代表戦に出場した。1958年のアジア競技大会にも日本代表として出場した。
1958年および1959年には関学クラブのメンバーとして2度の天皇杯(第39回および第40回)で2連覇を果たした。
現役引退後は阪南大学サッカー部の監督を務めた。
所属クラブ
- 兵庫県立尼崎高校
- 関西学院大学/全関学
- 川惣電機工業[要出典]
- 全関学/関学クラブ
代表歴
出場大会
- メルボルン五輪(1956)
- 第3回アジア競技大会(1958)
試合数
- 国際Aマッチ 15試合 0得点(1955-1959)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1955 | 5 | 0 | 3 | 0 | 8 | 0 |
1956 | 3 | 0 | 3 | 1 | 6 | 1 |
1957 | 0 | 0 | 7 | 0 | 7 | 0 |
1958 | 4 | 0 | 2 | 0 | 5 | 0 |
1959 | 3 | 0 | 6 | 0 | 9 | 0 |
通算 | 15 | 0 | 21 | 1 | 36 | 1 |
指導歴
参考文献
- 『兵庫サッカーの歩み―兵庫県サッカー協会70年史』兵庫県サッカー協会、1997年12月。ISBN 4303990205。
脚注
外部リンク
- 佐藤弘明 - Olympedia (英語)
- 佐藤弘明 - Sports-Reference.com (Olympics) のアーカイブ (英語)
- 佐藤弘明 - National-Football-Teams.com (英語)
- 佐藤弘明 - WorldFootball.net (英語)
- 佐藤弘明 - Transfermarkt.comによる選手データ (英語)
- 日本代表歴代記録 - 日本サッカー協会
日本代表 - 1956 メルボルン五輪 サッカー競技 | ||
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日本代表 - 1958年アジア競技大会 サッカー競技 | ||
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