ルイ12世 (フランス王)
ルイ12世 Louis XII | |
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フランス国王 | |
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在位 | 1498年4月7日 - 1515年1月1日 |
戴冠式 | 1498年5月27日 |
別号 | ミラノ公 |
出生 | 1462年6月27日 フランス王国、ブロワ城 |
死去 | 1515年1月1日(52歳没) フランス王国、パリ |
埋葬 | フランス王国、サン・ドニ大聖堂 |
配偶者 | ジャンヌ・ド・フランス |
アンヌ・ド・ブルターニュ | |
メアリー・テューダー | |
子女 | クロード ルネ |
家名 | ヴァロワ=オルレアン家 |
王朝 | ヴァロワ朝 |
父親 | オルレアン公シャルル |
母親 | マリー・ド・クレーヴ |
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ルイ12世(フランス語: Louis XII, 1462年6月27日 - 1515年1月1日[1])は、ヴァロワ朝第8代のフランス王(在位:1498年 - 1515年)。シャルル6世の弟ルイ・ドルレアンの孫[2]。
生涯
シャルル5世の孫であったオルレアン公シャルルと3番目の妃マリー・ド・クレーヴの息子として、ブロワ城で生まれる。アジャンクールの戦いの後にイングランド王国で25年間もの虜囚生活を過ごした[2]オルレアン公シャルルが67歳にして得た唯一の男子であった。1465年、ルイが2歳の時に父シャルルは薨去し、ルイは幼くしてオルレアン公位を継いだ。
1476年、ルイ11世の娘ジャンヌと王命により結婚した[2]。後にアンヌ・ド・ボージューの摂政政府に対する反乱(公益同盟戦争(英語版))に加担し、1488年からサン=トーバン=デュ=コルミエ(英語版)で投獄されたが、1491年にシャルル8世により釈放された[2]。1494年に勃発した第一次イタリア戦争では国王軍の後衛を指揮、ジェノヴァを占領した後もイタリア北部に留まってミラノ公国を窺った[2]。このときにはすでにミラノ公国の請求を考えていたという[2]。シャルル8世の息子が夭折したため、ルイ12世は王位継承者になり[2]、1498年に即位した。
ルイ12世はブルターニュに対する野心から、時のローマ教皇アレクサンデル6世に頼み込んでジャンヌとの結婚を無効にしてもらい、シャルル8世の王妃で王太后となっていたブルターニュ女公アンヌと結婚した。2人は2女をもうけ、長女クロードは王位継承者であったアングレーム伯フランソワの、次女ルネはフェラーラ公エルコレ2世の妃となった。
イタリア戦争も再開し、シャルル8世によるナポリ王国への主張以外にも祖父のルイ・ドルレアンがヴァランティーヌ・ヴィスコンティと結婚していたためミラノ公国も主張した[2]。彼はイタリアに親征したが[2]、ナポリ王家の同族であったアラゴン王フェルナンド2世によって間もなくフランス軍は南イタリアから武力で追放される。またフランスのイタリア介入を嫌う教皇は各国に呼びかけて神聖同盟を結成、1513年にフランス軍はミラノから追い出された。
1514年1月に王妃アンヌが薨去すると、ルイ12世はイングランドを対仏同盟から脱落させるためにイングランド王ヘンリー8世の妹メアリー・テューダーと結婚したが、1515年1月1日に崩御した[2]。
男子がいなかったため、王位は従甥のアングレーム伯フランソワが継承した。ルイ12世は野心を持って娘クロードと結婚した娘婿フランソワを最後まで警戒していたという。
評価
『ブリタニカ百科事典第11版』では、病弱で知力が平凡であり、気が弱かったため王妃アンヌと寵臣のジョルジュ・ダンボワーズ(英語版)枢機卿に支配されたと酷評している[2]。
系図
シャルル5世3 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
シャルル6世4 | ルイ (オルレアン公) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
シャルル7世5 | シャルル (オルレアン公) | ジャン (アングレーム伯) | ジャン・ド・デュノワ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルイ11世6 | ルイ12世8 | シャルル (アングレーム伯) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
シャルル8世7 | ジャンヌ | クロード | フランソワ1世9 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アンリ2世10 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルイ12世を扱った作品
- 佐藤賢一『王妃の離婚』
脚注
- ^ Louis XII king of France Encyclopædia Britannica
- ^ a b c d e f g h i j k Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Louis XII. of France" . Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.
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フランス君主 | |
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カロリング朝 |
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ロベール朝 |
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カロリング朝 |
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ロベール朝 |
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ボゾン朝 |
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カロリング朝 |
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カペー朝 |
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ヴァロワ朝 |
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ランカストル朝 |
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ヴァロワ=オルレアン朝 |
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ヴァロワ=アングレーム朝 |
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ブルボン朝 |
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ボナパルト朝第一帝政 |
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ブルボン朝復古王政 |
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ボナパルト朝百日天下 |
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ブルボン朝復古王政 |
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オルレアン朝七月王政 |
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ボナパルト朝第二帝政 |
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ナポリ国王(1501年 - 1504年) | |
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アンジュー朝 | カルロ1世1282-1285 / カルロ2世1285-1309 / ロベルト1世1309-1343 / ジョヴァンナ1世1343-1382 / カルロ3世1382-1386 / ラディズラーオ1世1386-1389 |
ヴァロワ=アンジュー朝 | ルイージ2世1389-1399 |
アンジュー朝 | ラディズラーオ1世(復位)1399-1414 / ジョヴァンナ2世1414-1435 |
ヴァロワ=アンジュー朝 | レナート1世1435-1442 |
トラスタマラ朝 | アルフォンソ1世1442-1458 / フェルディナンド1世1458-1494 / アルフォンソ2世1494-1495 |
ヴァロワ朝 | シャルル8世 (フランス王)1495 |
トラスタマラ朝 | フェルディナンド2世1495-1496 / フェデリーコ1世1496-1501 |
ヴァロワ朝 | ルイ-ジ3世1501-1504 |
トラスタマラ朝 | フェルディナンド3世1504-1516 |
スペイン・ハプスブルク朝 | カルロ4世1516-1556 / フィリッポ1世1556-1598 / フィリッポ2世1598-1621 / フィリッポ3世1621-1665 / カルロ5世1665-1700 |
ブルボン朝 | フィリッポ4世1700-1707 |
オーストリア・ハプスブルク朝 | カルロ6世1707-1735 |
ブルボン朝 | カルロ7世1735-1759 / フェルディナンド4世1759-1806 |
ボナパルト朝 | |
ブルボン朝 | フェルディナンド4世(復位)1815-1816 |
※1816年、両シチリア王国成立 カテゴリ |