ヘンリー・ケアリー (初代ハンズドン男爵)

初代ハンズドン男爵ヘンリー・ケアリー(Steven van Herwijck画、1561年 - 1563年)

初代ハンズドン男爵ヘンリー・ケアリー(Henry Carey, 1st Baron Hunsdon, KG, PC, 1526年3月4日 - 1596年7月23日)は、イングランドの貴族、政治家。父はサー・ウィリアム・ケアリー、母はヘンリー8世の愛人とされるメアリー・ブーリンテューダー朝最後の女王エリザベス1世の母方の従兄に当たる。ウィリアム・シェイクスピアのパトロンの1人でもあった。

生涯

メアリー・ブーリンは1515年からヘンリー8世の愛人となったが、5年後の1520年にお払い箱になりサー・ウィリアム・ケアリーと結婚した。ヘンリー8世は結婚後もメアリーとの関係を続け、ようやく王との関係を解消したメアリーは子供を産んだ。そうして生まれたのが娘キャサリン(英語版)と息子ヘンリーだが、メアリーの姉妹アン・ブーリンを始めブーリン家は結婚を巡る政争でヘンリー8世に粛清され、メアリー母子しか生き残れなかった[1]

1558年にヘンリー8世とアンの娘で従妹のエリザベス1世が即位すると翌1559年にハンズドン男爵に任じられ、ハートフォードシャーの領地と儀仗衛士隊隊長の地位を与えられた。また姉キャサリンは女官に、その夫フランシス・ノウルズ(英語版)副宮内長官(英語版)に、姪エリザベス(英語版)は侍女に任命され、ブーリン家はヘンリー8世時代の不遇期から立ち直った[2]

1562年、エリザベス1世が重病に倒れると必死の看病で手当てを尽くした。これが効いたのか女王は体調を回復、枢密顧問官に任命された。以後も女王に従い、1569年北部諸侯の乱(英語版)が発生すると鎮圧軍に加わり、1585年宮内長官(英語版)(宮内大臣)になった。1588年スペイン無敵艦隊襲来の報せがイングランドに届くと、陸軍総司令官のレスター伯ロバート・ダドリーに命じられ、陸軍副司令官としてロンドンにいる女王の警護に当たった[3]

1594年にイングランド劇団への介入に乗り出し、ダービー伯爵ファーディナンド・スタンリーを亡くして庇護者を失ったストレンジ卿一座(英語版)のパトロンとなり、宮内大臣一座(英語版)と改名・再出発した劇団の宿場の興行許可をロンドン市長に求めるなど劇団を後押しした。また婿で海軍卿(英語版)でもあるエフィンガムのハワード男爵チャールズ・ハワードにも働きかけて海軍大臣一座(英語版)の強化を図り、宮内大臣一座と並ぶロンドン二大劇団の成長に一役買った。宮内大臣一座に当初から入っていたウィリアム・シェイクスピアは作家として活動を続け、この時期に書かれた『夏の夜の夢』は1596年2月に行われたハンズドン男爵の孫娘(長男ジョージ・ケアリー(英語版)の娘)エリザベス(英語版)トマス・バークレー(英語版)の結婚披露宴で初演が行われたといわれる(異説あり)[4][5]

1596年、70歳で死去。ジョージがハンズドン男爵を継いだが、宮内長官はコバム男爵ウィリアム・ブルック(英語版)が引き継ぎ、宮内大臣一座は一時ハンズドン卿一座と改名した。コバム男爵は『ヘンリー四世 第1部』の登場人物フォルスタッフに対する扱いに怒ったため劇団とそりが合わなかったが、翌1597年にコバム男爵が亡くなり、後任の宮内長官にジョージが就任したため一座は名を宮内大臣一座に戻しジョージも劇団の庇護を引き継いだ。以後も宮内大臣一座はエリザベス1世が亡くなる1603年まで代々宮内長官の庇護を受け続け、エリザベス1世亡き後に即位したジェームズ1世が新たなパトロンになり国王一座と改名した[4][6]

子女

アン・モーガンと結婚、15人の子を儲けた。

  • ジョージ(英語版)(1547年 - 1603年) - 第2代ハンスドン男爵
  • ジョン(英語版)(? - 1617年) - 第3代ハンスドン男爵
  • ヘンリー(生没年不詳) - 庶民院議員
  • トマス - 夭折
  • トマス - 兄の名にちなむ。夭折
  • ウィリアム(生没年不詳)
  • エドマンド(英語版)(1558年頃 - 1637年) - 庶民院議員
  • ロバート(英語版)(1560年 - 1639年) - 初代モンマス伯爵
  • ジョーン(生没年不詳)
  • キャサリン(1550年 - 1603年) - 第2代エフィンガムのハワード男爵兼初代ノッティンガム伯爵チャールズ・ハワードと結婚
  • フィラデルフィア(生没年不詳) - 第10代ボルトンのスコープ男爵トマス・スコープ(英語版)と結婚
  • エリザベス(生没年不詳) - エドワード・ホビー(英語版)と結婚
  • アン(生没年不詳)
  • エレノア(生没年不詳)
  • マティルダ(生没年不詳)

庶子にヴァレンタイン(英語版)(? - 1626年)がおり、エクセター司教に就任した。

また、エミリア・ラニエ(英語版)という愛人がいたが、シェイクスピアのソネット集に登場する黒い肌の女性ではないかと推定されている[7]

脚注

  1. ^ 石井、P30、P49 - P50。
  2. ^ 石井、P227。
  3. ^ 高橋、P554、石井、P319 - P320、P358、P457。
  4. ^ a b 河合、P42。
  5. ^ 高橋、P554 - P555、結城、P127 - P128、P136 - P137、河合、P47。
  6. ^ 高橋、P555、結城、P142、P166、P211 - P212、河合、P73。
  7. ^ 結城、P152 - P155。

参考文献

公職
先代
サセックス伯(英語版)
儀仗衛士隊隊長
1558年 - 1596年
次代
ハンスドン男爵(英語版)
宮内長官(英語版)
1585年 - 1596年
次代
コバム男爵(英語版)
先代
不明
ノーフォーク統監(英語版)
1585年 - 1596年
空位
次代の在位者
ノーサンプトン伯
空位
最後の在位者
サセックス伯
サフォーク統監(英語版)
1585年 - 1596年
空位
次代の在位者
サフォーク伯
司法職
先代
レスター伯
巡回裁判官(英語版)
南トレント

1589年 - 1596年
次代
エフィンガムのハワード男爵
イングランドの爵位
先代
新設
ハンズドン男爵(英語版)
1559年 - 1596年
次代
ジョージ・ケアリー(英語版)
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