ハサン・ムサンナー

ハサン・ムサンナーアラビア語: أَبُو مُحَمَّد حَسَنِ بْنِ حَسَنِ بْنِ عَلِي ٱلْهَاشِمِي‎; c. 661–715)は正統カリフアリー・イブン・アビー・ターリブ(在位656-661年)の孫にあたる人物で、ハサン・イブン・アリーハウラ・ビント・マンズール(アラビア語版)の子。預言者ムハンマドの曾孫でもある。ウマイヤ朝のカリフ・ワリード1世と同時代の人。

生涯

ハサン・ムサンナーは、その父、ハサンがごく短期間だけカリフに推戴されていた661年ごろ、メディナで生まれた。母はバヌー・ファザーラの有力者マンズール・イブン・ザバーンの娘、ハウラである[1]

アフマド・イブン・イブラーヒーム・ハサニーによると、ハサン・ムサンナーはカルバラー事件の際、彼は戦場にいて、歳は19か20であったという(アブー・ミフナフのハディース集)。アーシューラーの日、彼は叔父のフサインのすぐそばで戦い、傷を負って捕らえられた。母方の叔父 Asma' ibn Kharijah Fazari が助命し、クーファで治療を受け、回復後、メディナに帰った。

13世紀のシーア派法学者ヒッリーによると、ハサン・ムサンナーを含むハサン・イブン・アリーの子どもたちは、すべてのイスラーム教徒が高貴なお方と認める人々であるという。

父方の叔父のフサインはハサン・ムサンナーに、娘のスカイヤとファーティマ(ペルシア語版)のどちらかを選んで妻にするように提案したと言われている。奥手なハサンは辞退したものの、最後はファーティマを選んだといい、その理由は彼女が祖母のファーティマ・ザフラーに似ていたからだという。

アリー・レザーが語り伝えるアリー家の系譜によると、ハサン・ムサンナーには子どもが多くいた。ファーティマ・ビント・フサインとの間にアブドゥッラー・カーミル(ペルシア語版)、イブラーヒーム・ガムル、ハサン・ムサッラス(ペルシア語版)、妾との間にジャアファルとダーウード、ラムラ・ビント・サイード・イブン・ザイドとの間にムハンマドをもうけ、それぞれがハサン家の第3世代として系譜が続いたという[2]

近代にいたるまでメッカの支配家系であったバヌー・カターダ(英語版)、ヨルダンのハーシム家、モロッコのイドリース朝などはハサン・ムサンナーの子孫を称する。

ウマイヤ朝のカリフ・ワリード1世はハサン・ムサンナーと書簡のやり取りをしている[3]

典拠

  1. ^ Madelung, Wilferd (1997). The Succession to Muhammad: A Study of the Early Caliphate. Cambridge University Press. ISBN 978-0-52-164696-3. https://books.google.com/books?id=2QKBUwBUWWkC  p. 382
  2. ^ "Ibn Bābawayh(I)". Encyclopaedia of Islam.
  3. ^ Marsham 2022, p. 38.
  • Marsham, Andrew (2022). “Kinship, Dynasty, and the Umayyads”. In Osti, Letizia; van Berkel, Maaike. The Historian of Islam at Work: Essays in Honor of Hugh N. Kennedy. Leiden: Brill. pp. 12–45. ISBN 978-90-04-52523-8. https://books.google.com/books?id=kQmWEAAAQBAJ