エドワード・オズボーン (初代準男爵)

初代準男爵サーエドワード・オズボーン: Sir Edward Osborne, 1st Baronet1596年12月12日洗礼 – 1647年9月9日)は、イングランド王国の庶民院議員。初代ストラフォード子爵トマス・ウェントワースの支持者であり、1633年から1641年まで北部評議会(英語版)副議長を務め、清教徒革命期には王党派の1人だった[1]イングランド共和国に一時財産を没収され、それを取り戻す代償として年収の1.5倍以上に相当する罰金を課された[1]。初代リーズ公爵トマス・オズボーンの父にあたる[2]

生涯

サー・ヒューエット・オズボーン(英語版)(ロンドン市長エドワード・オズボーン(英語版)の息子)と妻ジョイス(Joyceトマス・フリートウッド(英語版)の娘)の息子として生まれ、1596年12月12日にロンドンセント・ベネット・グレースチャーチ(英語版)で洗礼を受けた[2]。1599年9月、わずか2歳で父を失ったため[2]、イングランド女王エリザベス1世が後見人になった[1]。オズボーンの母と母の兄弟にあたるジョージ・フリートウッド(英語版)は1600年に420ポンドでオズボーンの後見権を買い上げた[1]。その後、オズボーンの母は1604年にサー・ピーター・フレッチュヴィル(英語版)と再婚した[1]

1619年2月にパースローズ・マナー(英語版)を1,150ポンドでウィリアム・ファンショー(英語版)に売却し、代わりにヨークシャーでの領地を拡大した後、1620年7月13日にイングランドの準男爵に叙された[2][1]。1625年よりヨークシャーのキヴィトン(英語版)に住んだ[1]。同年秋にノッティンガムシャー州長官(英語版)に選出されたが、海外に滞在していたため就任しなかった[1]。1629年にウェスト・ライディング・オブ・ヨークシャーの、1633年にノース・ライディング・オブ・ヨークシャーとイースト・ライディング・オブ・ヨークシャー治安判事に任命され、1635年にヨークシャー副統監に任命された[1]

1628年初に初代準男爵サー・ジャーヴァス・クリフトン(英語版)の後援を受けてイースト・レットフォード選挙区(英語版)で立候補して、庶民院議員に当選した[3]。後援を受けた理由は継父フレッチュヴィルの父の1人目の妻がクリフトンのおばだったためとされる[1]。もっとも、オズボーンが1度目の議員期で演説した記録はなかった[1]

政界では初代ストラフォード子爵トマス・ウェントワースの支持者であり、ストラフォードがアイルランド総督に就任すると、1633年に(オズボーンが1629年より評議員を務めていた)北部評議会(英語版)副議長に任命された[1]。1640年4月から5月までの短期議会ではヨーク選挙区(英語版)から選出されて議員を務めた[2]。1640年11月の長期議会ではベリック=アポン=ツイード選挙区(英語版)から選出されたが、同年12月7日に当選無効が宣告された[2]

清教徒革命王党派に属したため、1640年ごろに治安判事を退任、1641年に北部評議会副議長からも退任した[1]。1642年に初代ニューカッスル=アポン=タイン伯爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ率いる王党派の軍勢に加わったが[1]、1644年に国王軍がマーストン・ムーアの戦いで大敗してしまった。

年収978ポンドの地所を一時没収されたが[1]、最晩年の1647年4月にイングランド共和国より地所を取り戻す代償として罰金1,649ポンドを課された[2]。同年9月9日に死去、ヨークシャーハートヒル(英語版)(現サウス・ヨークシャーの一部)で埋葬された[2]。1人目の妻との間の息子が早世したため、2人目の妻との間の息子トマスが爵位を継承した[2]

家族

1618年10月13日、マーガレット・ベラシス(Margaret Belasyse、1624年11月7日没、初代ファウコンバーグ子爵トマス・ベラシス(英語版)の娘)と結婚、1男をもうけた[2]

  • エドワード(1638年10月31日没) - 生涯未婚[2]

1626年9月12日、アン・ミドルトン(Anne Midelton、1666年8月20日埋葬、トマス・ワルムズリーの娘、ウィリアム・ミドルトンの未亡人)と再婚[2]、2男1女をもうけた[4]

  • ジョイス(1636年5月11日没[4]
  • トマス(1631年 – 1712年) - 第2代準男爵、初代オズボーン子爵、初代ラティマー子爵、初代ダンビー伯爵、初代カーマーゼン侯爵、初代リーズ公爵[2]
  • チャールズ(1633年ごろ – 1719年8月7日) - 生涯未婚[4]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o Ferris, John. P. (2010). "OSBORNE, Sir Edward, 1st Bt. (1596-1647), of Kiveton, Harthill, Yorks.; formerly of Stratford Abbey, West Ham, Essex". In Ferris, John P.; Thrush, Andrew (eds.). The House of Commons 1604-1629 (英語). The History of Parliament Trust. 2024年7月13日閲覧
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m Cokayne, George Edward, ed. (1900). The Complete Baronetage (1611–1625) (英語). Vol. 1. Exeter: William Pollard & Co. pp. 153–154.
  3. ^ Ferris, John. P.; Coates, Ben (2010). "East Retford". In Ferris, John P.; Thrush, Andrew (eds.). The House of Commons 1604-1629 (英語). The History of Parliament Trust. 2024年7月13日閲覧
  4. ^ a b c Foster, Joseph (1874). "Pedigree of Osborne". Pedigrees of the County Families of Yorkshire (英語). Vol. III. London: W. Wilfred Head.
イングランド議会 (en
先代
ホートン卿(英語版)
サー・フランシス・ウォートリー準男爵(英語版)
庶民院議員(イースト・レットフォード選挙区(英語版)選出)
1628年
同職:スタンホープ卿(英語版)
次代
サー・ジャーヴァス・クリフトン準男爵(英語版)
フランシス・ピアポント(英語版)
先代
サー・アーサー・イングラム(英語版)
トマス・ホイル
庶民院議員(ヨーク選挙区(英語版)選出)
1640年
同職:サー・ロジャー・ジャックス(英語版)
次代
サー・ウィリアム・アランソン(英語版)
トマス・ホイル
先代
サー・トマス・ウィドリントン(英語版)
ヒュー・ポッター(英語版)
庶民院議員(ベリック=アポン=ツイード選挙区(英語版)選出)
1640年
同職:サー・トマス・ウィドリントン(英語版)
次代
サー・トマス・ウィドリントン(英語版)
ロバート・スコーエン(英語版)
イングランドの準男爵
爵位創設 (キヴァートンの)準男爵
1620年 – 1647年
次代
トマス・オズボーン