アブド・アッラフマーン2世
アブド・アッラフマーン2世 عبد الرحمن الثاني | |
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後ウマイヤ朝アミール | |
アブド・アッラフマーン2世像(ムルシア) | |
在位 | 822年5月21日 - 852年9月22日 |
全名 | 一覧参照
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出生 | 792年 後ウマイヤ朝、トレド |
死去 | 852年9月22日(852-09-22)(59–60歳没) 後ウマイヤ朝、コルドバ |
子女 | ムハンマド1世 |
家名 | ウマイヤ家 |
王朝 | 後ウマイヤ朝 |
父親 | ハカム1世 |
宗教 | イスラム教スンナ派 |
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アブド・アッラフマーン2世(アラビア語: عبد الرحمن الثاني, ラテン文字転写: Abd ar-Rahman II、792年 - 852年9月22日)は、後ウマイヤ朝の第4代アミール(在位:822年 - 852年)。
生涯
先代アミールのハカム1世の子としてトレドに生まれる。国力の増強に努め、アッバース朝を範とした行政・財政機構の整備を進めた。当時フランク王国で対イスラーム勢力の防衛地点であったスペイン辺境領(現在のカタルーニャ地方)への遠征、またこの頃から激化してきたノルマン人の侵入に対抗するために沿岸側の防衛を強化し、アミール権力の強化に尽力した。844年にカディスとセビリアがヴァイキングの侵攻を受け、都コルドバにも迫る勢いであったが、これを撃退している。
また、コルドバにあるメスキータと呼ばれる会衆モスクの礼拝室を間口11スパン、奥行12スパンから奥行方向に10スパン拡張した。メスキータは後にアブド・アッラフマーン3世やハカム2世・ヒシャーム2世らによって更に拡張されることになる。
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ウマイヤ朝カリフ | |
後ウマイヤ朝アミール | アブド・アッラフマーン1世756-788 / ヒシャーム1世788-796 / ハカム1世796-822 / アブド・アッラフマーン2世822-852 / ムハンマド1世852-886 / ムンジル886-888 / アブド・アッラー888-912 / アブド・アッラフマーン3世912-929 |
後ウマイヤ朝カリフ | アブド・アッラフマーン3世929-961 / ハカム2世961-976 / ヒシャーム2世976-1009 / ムハンマド2世1009 / スライマーン1009-1010 / ムハンマド2世(復位)1010 / ヒシャーム2世(復位)1010-1013 / スライマーン(復位)1013-1016 / アブド・アッラフマーン4世1018 / アブド・アッラフマーン5世1023-1024 / ムハンマド3世1024-1025 / ヒシャーム3世1027-1031 |
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